第一話『もう一つの現実』

窓の外では、街灯の微かな明かりが夜の闇をわずかに照らしていた。篠宮透、30歳。彼の部屋は乱雑で、生活感のない雑然とした空間だった。彼は会社員として働き、朝起きて会社へ行き、業務を淡々とこなし、疲れ切って帰宅する。特に刺激もなく、ただただ平凡な日常を繰り返していた。

「あーあ、また今日も特に何もなかったな」

自分に向かって吐き捨てるように呟き、椅子にもたれかかったまま彼はぼんやりと天井を見上げた。いつからだろう、毎日がこんなふうに灰色の連続となってしまったのは。特別大きな不満があるわけではなかったが、人生に対する漠然とした不安や退屈感が透の胸を常に圧迫していた。

唯一、彼が心を解放できる瞬間は、週末に仲間たちと楽しむTRPG(テーブルトップ・ロールプレイングゲーム)だった。仮想の世界に入り込み、現実とは違う自分を演じることは、彼にとって貴重な逃避の場であり、唯一の楽しみでもあった。

今夜もその時間が訪れていた。

透はパソコンを起動し、オンライン通話のアプリを立ち上げる。画面上に次々と表示される友人たちの顔を見て、少しだけ気持ちが明るくなった。

「お、透、元気か?準備はいいか?」

画面の向こうから聞こえる友人の声に、透は軽く手を振った。

「ああ、大丈夫だ。早く始めようぜ」

彼らがプレイしているのは『サイバーパンクRED』というTRPGだった。巨大企業が支配する荒廃した未来都市ナイトシティを舞台に、プレイヤーはそれぞれ個性的なキャラクターを演じて世界を冒険するゲームだ。

透が演じるキャラクターは『ミヤシノ・ルート』という名のソロで、戦闘や銃器に精通した傭兵だった。性格は軽薄で、時に無責任な行動を取ることも多い。どこか自分自身の性格を投影してしまっている部分もあった。

「それじゃ、今日のシナリオを始めるぞ。君たちは企業の秘密研究所に潜入し、ある極秘データを奪取する任務を受けている」

ゲームマスターの声が透たちの耳に届いた。ゲームが進むにつれ、透の意識は次第にゲームの世界へと深く沈み込んでいった。仲間との軽快な掛け合いや、危機一髪の緊迫した場面などが、彼の感情を高ぶらせていく。

しかし、ミヤシノのターンが回ってきたとき、透はいつもの癖で軽率な行動を選択した。

「ここは派手に行こうぜ。敵に見つかっても俺が何とかする」

その軽い発言に、仲間たちが呆れた表情を浮かべたのが画面越しに伝わった。

「透、お前またかよ。ちゃんと考えて行動しろって」

仲間の注意を受け流すように、透は適当に笑って答えた。

「大丈夫だって、どうせゲームなんだし」

その瞬間、透は突然、意識が遠のく感覚に襲われた。まるで世界が急速にぼやけていくような奇妙な感覚だった。耳に届く仲間の声がだんだん遠くなり、視界が暗闇に包まれていった。

――次に彼が目を開けたとき、その景色は全く違っていた。

灰色の空を背景に、高層ビルの群れがネオンの光を放ちながらそびえ立っている。雑踏には機械化された人間や、奇抜な服装をした人々が行き交っていた。ここは、まぎれもなくゲームで遊んでいた世界、ナイトシティそのものだった。

「夢……?」

透はゆっくりと自分の身体を見下ろした。明らかにいつもの自分ではない。筋肉質で引き締まった体つき、そして馴染みのない衣装。手に握られているのは、彼がキャラクターとして設定した拳銃だった。

「いや、これは……本当にナイトシティか?」

彼が戸惑っている間にも、現実味のある光景と音、そして何より自分の身体から感じるリアルな感覚が、これは夢や妄想ではないことを示していた。

「君、大丈夫?」

突然、背後から聞こえた女性の声に、透は驚いて振り向いた。そこには、黒髪のショートヘアに鋭い視線を持つ美しい女性が立っていた。彼女が不審そうに透を見つめている。

「えっと、俺は……」

戸惑いながら口を開く透に、彼女は静かに尋ねた。

「あんまりボーッとしてると、この街じゃすぐに死ぬわよ。ここ、初めて?」

その言葉に、透――いや、ミヤシノ・ルートは改めて自分がどんな状況に置かれているのかを痛感した。ここは、ゲームではなく、もう一つの現実なのだと。

 

 

 

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